横浜陶芸友の会のあゆみ

1974(昭和49)年に始まります。

この年の3月28日、根岸駅前薬業会館ホールで発足総会がひらかれました。
この総会には、当時の飛鳥田横浜市長が来賓として来られ、祝辞を戴きました。この年の5月10付けで、創刊号の友の会だよりが発行され、市長の祝辞が全文掲載されています。



(飛鳥田市長祝辞)
 (「友の会だより」創刊号の第一ページ)


発足時の会長は青嶋房雄氏。会報はこの年から年4回発行されました。
発行人は、創刊号、2号は丸山氏。3号、4号は川戸さん。
本牧の横浜市青少年陶芸センターに、会の事務所を置いた。

センタの先生は、高木、寒河江、紫崎、中尾、石川、小島、森谷等。

第一回の窯場見学会を実施。9月25日益子を約140名でバス3台に分乗して、日帰り。


1975(昭和50)年

会長は松尾正文氏。副会長に峰本 、後藤氏。

第一回の作品展を、横浜三越で開催。
約100点の展示。飛鳥田市長、長洲県知事が来場

会報の編集人は、安藤氏になる。この年から会報の発行人は会長となり、広報の責任者が編集人となった。

窯場見学会は10月15日、美濃焼。参加者58名。

自分たちの窯を作ろうと云うことで、窯場建設準備委員会を発足させた。


1976(昭和51)年

会長、副会長続投。

第二回の作品展を、横浜三越ぎゃらりーで開催。横浜市との共催
40余名、約160点の展示。

会報の編集人は、安藤厚美氏続投。この頃の会報に陶芸センターの教室の参加募集有り。

窯場見学会は瀬戸焼。参加者50余名。

窯場建設準備委員会を継続。


1977(昭和52)年

会長は松尾氏、副会長は後藤、遠藤、志村、川井の四氏。

総会に飛鳥田市長の祝電を戴く。

第三回作品展を、横浜三越ぎゃらりーで開催。神奈川新聞の後援を得た。
38名、約120点の展示。

会報の編集人は、油井氏。

窯場見学会は10月20日、常滑焼。参加者39名。窯場建設準備委員会は継続。

本牧陶芸センタの講習会に指導者コースが出来た。この後、このコースの修了者が役員を務めることが多くなった。


1978(昭和53)年

会長が川井 浩氏。副会長 後藤、八田氏。庶務部に江口氏。

作品展を実施せず。

会報の編集人は、油井氏。16号(6月9日)、17号(2月15日)の2回のみの発行。

窯場見学会は10月19日、笠間焼。参加者不明。

窯場建設準備委員会は継続。

会員の方でこの頃の記念になる写真をお持ちの方、担当までご連絡を。


1979(昭和54)年

会長川井 浩氏。副会長 志村、八田氏。

54年度作品展教育文化センタ市民ギャラリ2階で開催。会場での販売はなく、賞等も設けない形式が始まった。
出品者数66名、作品数208点

この年、会計部、事業部、広報部、総務部の組織を持ち、会の活動をそれぞれ分担することとなった。

会報の編集人は、木村氏。年4回発行に戻った。

窯場見学会、美濃焼。10月19日

窯場建設準備委員会は継続。


1980(昭和55)〜1982(昭和57)年

会長川井 浩氏。 副会長 志村、八田氏、’80〜’82年は江口、渡辺。この頃組織が変わらなくなり安定し始めた。又、友の会が趣味の人の会であり相互に研鑽するという性格も確立されていった。

この頃から上級者、指導者コースへ進むと、作りたいものを図面で表し、それをきっちり作ると言う考え方で、高木先生から厳しく指導を受けた。

55年度〜57年度作品展毎年実施。作品展は教育文化センタ市民ギャラリ2階。
出品者は50数名で、作品数は200点以上で推移。

会報の編集人は、木村氏(広報部)。

’79年6月 寒河江先生の平塚窯で会員の作品の焼成を行うこととなった。

窯場見学会は毎年行われ、’80:益子、’81:信楽(夜行日帰り)、’82:瀬戸美濃焼(夜行日帰り)等。 窯場建設準備委員会は1980(昭和56)年の役員構成図に無い。

’79年は会報に構成図が掲載されていない。この頃廃止されたようだ。
(この間の事情をご存じの方、担当までお知らせ下さい)


1983(昭和58)〜1986(昭和61)年

会長江口氏。 副会長 八田氏、渡辺。 ’84 名誉顧問に細郷道一横浜市長。58年度作品展が行われた。翌年’84年は第六回作品展と呼称している。作品展を教育文化センタ市民ギャラリ2階で行った’79(昭和54)年を第一回と計算し、以後作品展は回数で表示する。このため会の創立からの年数と作品展回数が5回ずれることとなった。

 ’86年4月の総会で専修部が作られ、陶芸センターでの焼成の受付、焼成代の収受、市への納付などを担当することとなった。それまでは総務部担当。

会報の編集人は、草生氏(’83,’84)。杉山氏(’85,’86)

窯場見学会は毎年行われ、’83:京・清水(夜行、現地一泊)、’84:笠間(日帰り)、’85:備前・丹波(夜行、現地一泊、夜行帰り、’86:美濃焼(夜行1日)等。

会員数は250名前後


1987(昭和62)〜1989(平成元)年

会長江口氏。 副会長 八田氏、渡辺。

作品展は9、10、11回と続く。出品者数50名前後、作品数300〜400。

’87年細郷市長作品展に来場

会報の編集人は、江口氏が兼務する。

窯場見学会は’87:会津本郷(夜行1日)、’88:益子(1泊2日)、’89:越前(夜行現地一泊)等。

会員数300名前後。


(この頃の本牧横浜青少年陶芸センター内部、左端は高木先生)

(上級者・指導者コースでロクロの基礎として8.5*8.5の筒茶碗を徹底的して練習させられた。高木先生の見本

(88年窯場見学会(益子)でのスナップ  島岡達三先生)  (88年窯場見学会(益子)でのスナップ  浜田晋作先生


1990(平成2年)〜1993(平成5)年

90年:名誉顧問が高秀秀信横浜市長になり、会報64号(9月20日)に挨拶文を戴いた。

会長江口氏。 副会長 八田、渡辺。高村各氏

’92(平成4)年、7月に高木先生が退職、センタは一時閉鎖。
センターが、友の会による利用は出来なくなった。
この年の7月、聖坂養護学校で会員の作品の焼成を行うこととなった。翌’93年第2回焼成教室を横浜市技能文化会館の施設を利用し開催。これが現在に続く。

作品展は12〜15回と続く。
出品者数50名前後、作品数450〜550前後

会報の編集人は、’90,’91は嶋田氏、’92江口、’93金子と変わる。’90年6月号から会報に漫画「陶陶さん」(作者:あかほし)連載始まる。

窯場見学会は’90:常滑(夜行現地1泊2日)、’91:信楽(夜行現地1泊2日)、’92:有田、唐津を予定したが参加者が集まらず中止。’93:瀬戸(夜行現地1泊2日)等。

会員数300名前後。



平成2年作品展の新年会スナップかなり前から作品展に合わせて
新年親睦会を行っている。)


1994(平成6年)〜1997(平成9)年

会長が高村氏になった。’95年度副会長嶋田氏。

この間、夏期、冬期の年2回、焼成教室を開催。

’94年より日野養護学校の野焼き祭りに参加する様になった。

作品展は16〜19回。出品者数45〜60名前後、作品数470〜570前後

会報の編集人は、金子氏。<BR>

窯場見学会は’94:笠間(1泊2日)、’95:丹波(夜行現地1泊2日)、’96:京都(夜行現地1泊2日)。’97:唐津・有田(遅い便で羽田発、現地2泊2日)等。

会員数160名前後。



’94年の日野養護学校の野焼き祭りに参加した時のスナップ


1998(平成10年)〜2003(平成15)年

会長:高村氏。副会長:松崎氏、’01年より、松崎 出渕両氏。この間、夏期、冬期の年2回、焼成教室を開催。
日野養護学校の野焼き祭りは’03年限りで校舎移転のため無くなった。

作品展は20〜25回。出品者数60〜75名前後、作品数500〜600前後。20回は記念展として場所を3階に移し、過去に出品したものでも良いこととし、作品点数は868点を数えた。

会報の編集人は、金子氏。’03に太田氏

窯場見学会は’98:秩父周辺(1泊2日)、’99:萩(前夜発現地2泊2日)、’00:益子(1泊2日)、’01:小鹿田・小石原(1泊2日)、’02:多摩方面(1泊2日)、’03:備前(1泊2日)等。

会員数180名前後


(03年窯場見学会のスナップ写真から)

(金重先生にはろくろの実演もして頂きました。)

森 陶岳先生の壮大な登り窯のお話には一同感嘆しきり
 でした。)

(藤原 啓先生にはお父上のお話を伺って一同感心。)


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